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鴨長明の生き方に共感|人生に疲れて出家した元祖ミニマリスト

保坂陽平

「人間関係に疲れた」
「人生がうまくいかない」
「何もかも嫌になった」

800年以上の前の時代を生きた鴨長明も、ずっとこんな気持ちだったのかもしれません。

京都の世界遺産、「下鴨神社」の神職の家に生まれた鴨長明。

由緒ある神社の跡継ぎ候補として、何不自由のない裕福な家庭で育ちました。

住まいはきっと豪邸だったと思いますが、晩年を過ごしたのは「方丈の庵」と呼ばれる小さな山小屋。

方丈記は、その小さな山小屋(方丈の庵)で書かれた随筆です。

世の中が嫌になってしまい、人と関わらずに一人で生きる道を選んだ鴨長明。

私も会社員の頃にストレスでうつ病を患ってしまい、世の中が嫌になってしまった一人として、鴨長明の生き方には共感しかありません。

世の中が生きづらいと感じている人にぜひ知ってほしい、鴨長明の生き方を紹介します。

方丈とは?方丈記のタイトルの由来

方丈の庵

鴨長明と方丈記、「ゆく河のながれは絶えずして」という冒頭まで、歴史の授業で暗記していた方も多いと思います。

でも、方丈記の内容や時代背景、鴨長明の人生については、知らない人がほとんどではないでしょうか。

方丈記のタイトルの由来は、鴨長明が晩年を過ごした山小屋の広さから来ています。

方丈とは、1丈四方のこと。1丈は約3メートルで、方丈(3メートル四方)は約5畳半の広さです。

長明は55歳ぐらいの頃に自分で方丈の庵を建て、ここで方丈記を書き上げました。

狭い住まいでも、一人で暮らすには十分。

寝床があり、仏道や琵琶に集中できる環境も整っていました。

しかも、方丈の庵は移動式。

場所が嫌になったらすぐに移転できるよう、解体も組み立ても簡単にできる設計となっていたのです。

家も持ち物も最小限でありながら、十分に満たされた生活を送っていた長明。

まさにミニマリストの元祖ですね。

長明は方丈の庵とともに、しばらくは平安京の内外を転々としていたのかもしれません。

最終的には日野(京都市伏見区)の山中に落ち着き、その地をとても気に入りました。

長明方丈石

現在、方丈の庵跡とされる場所には、長明方丈石という石碑が建っています。

実際に行ってみると、とても落ち着く場所です。

ちょっと歩くのが大変ですが、私にとっては聖地のような場所なのでまた訪問したいと思います。

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鴨長明の人生

鴨長明は方丈の庵の広さについて、昔住んでいた家の1000分の1に及ばないと書いています。

方丈の庵の広さを坪で換算すると約2.778坪。その1000倍は約2778坪です。

サッカーコートが約2100坪だそうなので、2778坪ってとんでもない広さの豪邸ですよね。

大げさに誇張していたとしても、かなり広い家に住んでいたに違いありません。

それがなぜ、方丈の庵でひっそりと暮らすことになったのでしょうか。

父親の死をきっかけに人生が暗転

下鴨神社

鴨長明が生まれたのは平安時代末期、1155年とされています。

父の名は鴨長継(ながつぐ)。

長継は下鴨神社の最高責任者である「正禰宜惣官(しょうねぎそうかん)」という地位に就いていました。

要するに、長明は下鴨神社の跡継ぎ候補であり、裕福な家に生まれたお坊ちゃまであったわけです。

しかし、1172年頃、長明が17歳ぐらいの頃に、父長継は若くして亡くなってしまいます。

長明は父の死を嘆き悲しみ、

住みわびぬいざさは越えん死出の山さてだに親の跡を踏むべく

という歌を詠んでいます。

「もうこの世がいやになった。あの世へ行きたい」

という自殺をほのめかす歌です。

さすがに激しすぎる気もしますが、長明にとってはそれだけ偉大であり、後ろ盾となっていた父だったのでしょう。

父の死をきっかけに、長明の人生は暗転。

跡を継ぐはずだった正禰宜の位は親戚に奪われてしまい、長明に味方してくれる人は誰もいなくなってしまいました。

孤立した長明は引きこもってしまいます。

出世のチャンスを親族につぶされてしまう

河合神社

引きこもっていた長明は、和歌と琵琶に打ち込みます。

現実逃避だったのかもしれませんが、長明はその才能を開花させ、和歌の実力は後鳥羽上皇に認められるほどの腕前に。

なんと新古今和歌集に載せる歌を選ぶ仕事に就くことになったのです

そして、そこでの熱心な働きぶりが評価され、ついに後鳥羽上皇から河合神社の禰宜のポストを用意してもらえることに。

河合神社は下鴨神社に付属する神社で、父長継も禰宜を務めていたことがあります。

長明にとっては願ってもないチャンス。

「喜びの涙せきとめがたしきけしき」

と大喜びしますが、またも親戚の邪魔が入ってしまうんです。

当時の下鴨神社の最高責任者であった鴨祐兼(すけかね)が、長明がまだ神官としては未熟であるとして猛反対。

代わりに自分の子供である鴨祐頼(すけより)を推薦し、「これは神意だ」と言い張ってきたのです。

結局、後鳥羽上皇も「神意」を無視することはできず、長明の就任はおじゃんに。

いよいよ世の中が嫌になった長明は出家。

50歳の時でした。

それにしても上皇の内意をも退けられるって、当時の神官はどれだけ偉かったのでしょうか⋯⋯。

日野の山中に方丈の庵を建てて安住

方丈の庵跡

出家した後の長明は、京都北東部の大原(京都市左京区)で5年ほど暮らしていたようです。

しかしどういう理由かわかりませんが、長明は大原の地を出ることに。

方丈の庵を製作し、その土地が嫌になったらすぐに移転できるようにしたことから、大原でも人付き合いに問題があったのかもしれません。

もしくは、自分がより安らげる場所を探すために、自由に動けるようにしたのかもしれません。

いずれにしても、方丈の庵を建てたのは長明が55歳ぐらいの頃。

当時の平均寿命を考えると、「死」を意識していたと思います。

ずっと生きづらさを抱えていた長明は、心が一切ざわつくことのない静かな余生を送りたいと思っていたのではないでしょうか。

そして日野の山中にたどり着きますが、最初はここも仮住まいのつもりだったようで、方丈記にこう記しています。

この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。

「ここに住み始めた時は少しの間と思っていたのが、もう5年経ってしまった」と、今までにないストレスフリーな暮らしだったようです。

2778坪の豪邸に住んでいる時よりもずっと、安らかで落ち着いた生活だったのではないでしょうか。

大火、竜巻、飢饉、大地震、そして戦争

鴨長明が生きた時代は、平安時代から鎌倉時代へと変わる激動の時代。

戦争に加えて大きな災害も続き、はっきり言って悲惨な時代でした。

特に1177年から1185年にかけての9年間は、大火、竜巻、飢饉、大地震が立て続けに発生。

1177年:安元の大火
1180年:治承の辻風、以仁王挙兵、福原遷都、源頼朝挙兵
1181年:養和の飢饉(~1182年)、平清盛没
1183年:平家都落ち、木曽義仲入京
1184年:木曽義仲没、一の谷の合戦
1185年:元暦の大地震、平家滅亡、鎌倉幕府成立

方丈記にも、その時の状況が詳しく書かれています。

安元の大火では平安京の3分の1が焼失し、公卿の立派なお屋敷も焼けてしまいました。

その3年後には治承の辻風が発生し、またも多くの家屋が倒壊。

辻風の2週間後には以仁王(もちひとおう)が平家打倒のために挙兵し、戦争で平安京はさらに荒れていきます。

極めつけは福原遷都。

平安京を福原(現在の神戸市兵庫区辺り)に移そうという計画で、平清盛の主導で進められました。

計画は難航し、わずか半年で京都に戻ることになりましたが、その間に放置された都はさらに荒廃。

その翌年には平清盛が「謎の熱病」で亡くなり、養和の飢饉が始まります。

養和の飢饉では、当時10万人ほどの人口だった京都で、4万人以上が餓死したそうです。

平家が滅亡し、鎌倉幕府が成立した1185年には元暦の大地震が発生。

源平合戦という名の戦争中に、これだけの災害が重なるとは⋯⋯。

こんな時代を乗り越えた鴨長明の生き方は、正しかったのかもしれません。

悲惨な時代から生まれた無常観

鴨川

無常観とは、「すべてのものは常に移り変わり、生まれては消えていく」という思想です。

鴨長明が生きた時代は、戦争や災害によって、人も建物も泡のように浮かんでは消えていきました。

しかも人々の記憶も薄れていき、数年も経てば大変な災難があったことを口にする人もいなくなってしまいます。

長明はこのような移り変わりを「むなしい」と感じていました。

方丈記の冒頭は、このような書き出しで始まります。

ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

「河の流れは絶え間なく、元の水ではない。水面に浮かぶ泡は消えたり生まれたり、永く留まることはない。世の中の人も家も、これと同じようなものだ」

という内容で、まさに「無常観」を表していますね。

立派な豪邸を建てても、災害や戦争であっけなく崩れてしまいます。

都会は人の移り変わりが激しく、人間関係の悩みが尽きることはありません。

長明が選んだ道は、人のいない山中での暮らしでした。

家も持ち物も最小限。

現代のミニマリストに通じる生き方です。

今の世の中はどうでしょうか。

日本では大地震が何度も発生し、毎年どこかで水害が起きています。

常に世界のどこかで戦争をしていて、日本が巻き込まれる可能性もゼロではありません。

スマホやSNSで人とのつながりが多くなり、人間関係の悩みも増える一方です。

こんな時代にこそ、鴨長明のような生き方も悪くないかと思います。

鴨長明の生き方から学べる現代の生き方

日野の山中

鴨長明の生き方をまとめると、主に3つのポイントがあるかと思います。

  1. 人間関係をなくす
  2. 積み上げてきたものを捨てる
  3. 向いてない環境で頑張らない

人間関係をなくす

アドラー心理学で「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言われているように、人間関係を減らせば減らすほど、ストレスも減っていきます。

私は人間関係をリセットしまくった結果、今では月に2~3回しか人に会う予定がありません。

失うものもたくさんありましたが、それでも残った友人はかけがえのない財産です。

とは言え、いきなり人間関係を切るのは難しいかもしれません。

LINEのグループチャットを抜けたり、FacebookやInstagramなどのSNSをやめたり、年賀状をやめたりと、できることからやってみてください。

積み上げてきたものを捨てる

鴨長明は河合神社の禰宜になれなかったことにショックを受けて出家しますが、我慢していればまた別のチャンスが巡って来たかもしれません。

また、和歌の腕前も後鳥羽上皇に認められるほどだったのですから、その道で生きていくことも十分できたと思います。

でも、鴨長明はそれまでに積み上げてきたものを捨てて、出家する道を選びました。

「ここでやめてしまうのはもったいない」と、無理して続けていることはありませんか?

人に相談しても、「せっかくここまで頑張ってきたんだし、もうちょっと続けてみたら?」と言われるのがオチです。

私は会社員の頃は海外営業で、英語や中国語のスキルを磨いていましたが、今はまったく使っていません。

正直、「あのまま続けていれば今頃は⋯⋯」って思うこともあります。

でもあのまま続けていたら、再起不能なまでに病んでいたかもしれないとも思います。

いったんやめても、またやりたくなった時に再開すればいいんです。

うまくいかなくて苦しい時は、いったん頑張るのをやめてみましょう。

向いてない環境で頑張らない

鴨長明が出家したのは50歳の時ですが、方丈記にこう記しています。

すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、短き運をさとりぬ。

「すべて、生きづらい世の中をこらえ、心を悩ませたこと30年余り。その間、機会があるたびに思い通りにいかず、自然と自分の不運を悟った」

30年以上ずっと生きづらさを抱えながら、50歳まで必死に生きてきた長明。

何をやってもうまくいかず、自分はこの世に向いてないと悟ったのでしょう。

私は学校や会社といった組織が苦手で、それでも「適応できない自分が悪い」と思って頑張ってきましたが、最後はうつ病になってしまいました。

もっと早く、うつ病になる前に向いてないと悟って、別の道を探せばよかったと後悔しています。

自分に向いてない環境では、どんなに頑張ってもうまくいきません。

たとえそれが自分のやりたいことであっても、頑張れば頑張るほど苦しくなってしまいます。

鴨長明のように、苦しい環境から抜け出して、自分に合った環境を探しましょう。

参考書籍

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薬草コーディネーター/雑草料理研究家
うつ病で社会から脱線した完全在宅ワークのフリーランス。穏やかに生きる術を模索しています。家庭菜園で自然栽培に挑戦中。卵は鶏から頂いております。ヘヴィメタルとビールがセロトニンです。
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